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60歳を過ぎて!?
山柾君子
 私は「何で、在家仏教こころの会やっているのか?」って言われた時に、「人間として自立したいから」っていうふうに答えた覚えがあります。それをずーっと目指してきたので、“わりと自分では自立している方かな”と思っていたんですね。
 でも、それが“してなかったんだ”っていうのを最近、感じました。それは私の性格から言って、“自分で決めて、自分で行動して、その結果がどうあろうと自分の責任だ”って。
 それが“潔い自分”で“自立した自分”と思っていたものですから、仕事のことでも、上司とはもう10年以上一緒にやっているんですが、最初の7、8年は非常に不満でした。
 全部、尻拭いっていうことじゃないですけど、身体を使う仕事を私がほとんどやっていて、不満がすごく溜まって、それでも恩に着せてやっていたわけです。“こんなものに負けるものか!”とムキになってやっていたものですから、自分にすごくストレスが溜まって、身体もおかしくしていたわけですよね。でも、そこになかなか気づかなかったんです。

 それがもう60歳過ぎてからですね。やっと、“あっ、そうだ。自分がストレスを溜めるってことは、なんなのか”って言ったら、“相手に対して、思いを言ってない”と。「こうこうこうだから、こうしてくれ」、「何でそんなことを私に言うのか?」、「これは私ができてないから、そっちでやってくれ」とか……。そういうことを言えばいいわけですよね。
 それを自分で“この人はしょうがない、まったくしょうがない”っていうふうに、自分で決めつけて、自分で何も行動を、良くなる行動を起こさなかったわけです。
 それがやっと、60歳を過ぎて、自分の身体がちょっと悲鳴をあげだしてきてから、「私は、これはできません」、「男の人ですからやってください」と言えるようになりました。
 それから、うるさいことをごちょごちょ、ごちょごちょ言うもんですから、「何でそれ、今、言うんですか?」とか、そういうことをハッキリ言えるようになったんです。まあ、付き合いも長いですから、そしたら、私の言うことに薄笑いをして、“まあ、しょうがねえかな”っていうような感じで……。
 その人とは、もう、なんて言うんですかねえ。今まで、本当に、ひどい時は同じ空気を吸っているのもイヤなぐらいイヤだったんです。だけど、今は何か言われても“まったく”って、ちょっと思う気持ちはあっても、それがあんまり気にならなくなってきたんですね。

 そうしてみて、“あっ、そうか。やっぱり、自分でそういうことを言ってこなかった”っていうことは、“これは、自立につながらないんだな”って。やっぱり、自分がこう決めて、自分でやっていても、必ず、他人からくるものですよね。一人で生きているわけじゃないんで、必ず、他人と関わらなければならないんで、どこで何が飛んでくるかわかんないわけですよね。
 それを自分で解決できるようになったっていうか……。それを恐れずに、“他人にこういうこと言ったら、こう思われんじゃないか”とか、“もっと悪くなるんじゃないかと思って、我慢している”とかっていうことじゃなくて、やっぱり、“こういうふうに言って、こうして、こう解決してこう”って。
 自分の中で、自分で決めて、自分で行動できることを、本当に、この歳になって、やっと、できるようになりました。
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