No.31
みんな生きてるやんか!
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障がいを持つ人と直に接し、その生き生きしている姿にカルチャーショックを受けたという坂岡さん。その後、老人介護ボランティアに関わり、今は介護福祉士として老人ホームに勤務している。
十年近くの障がいを持つ人のボランティア、老人介護を通して、「生きることは一緒やんか」と、障がいのあるなし、介護の必要あるなしに関係なく、一緒に生きる中で “死” から “生” を見つめている。
出演者付きって!?
大阪では平成二年の「国際花と緑の博覧会」が終わった後、在家仏教こころの会(当時霊友会)の支援で「生き方宣言フェスティバル」が開催されるようになりました。これは、誰もが自分の “いのち” を生き生きと生きていこうとの思いを発信するイベント。
当時は知りませんでした。母から聞いていたとしても、私は右から左へ抜けていきました。でも、母はずっとこのイベントにボランティアで参加していたんです。何年か経って、母もだんだん歳をとり、 “次の世代にも続けていかんとあかん” という思いから、私に「道子、行きなさい」と言ってきたんです。その日は予定もなく空いていたので、深く考えず軽い気持ちでボランティアとして参加したんです。
「生き方宣言フェスティバル」では、障がいを持つ方の舞台での発表をはじめ、個人や団体・施設で作られた作品の展示、また授産施設で作られた作品を販売する手作り展などがあるんですが、私は舞台進行の出演者付きというボランティアをさせてもらいました。出演者付きとは、舞台に出演される障がいを持つ方たちが、滞りなくリハーサルを済ませ、本番を終え、気持ちよく帰ってもらう役目だったんです。
♪ドンチャン・ガラガラ~
私が想像していたより大々的なイベントで、知的障がいの方もいらっしゃれば、視覚障がいの方も、車イスの方もいらっしゃいました。当時は申し訳ないけど、健常者と障がいを持つ人という枠で括っていたので、 “私はボランティア、障がいを持つ方に失礼があってはいけない” という意識ですごく構えて、 “ジロジロ見たらあかん” と変な気を回して、かなり緊張していたんです。
でも、舞台で声楽や楽器の演奏を発表する姿を見させてもらって、強さであったり、ある意味の弱さであったり、なんていうのか、すごく生き生きしていたんです。指揮者も音楽に合わせて “ドンチャン・ガラガラ~” と、一般的な指揮とは違い、トライアングルやカスタネットを使って演奏をまとめ、障がいを持つ人も健常者もなく、お互いに納得できる時間を共有していたんです。
その光景が、私にとってはカルチャーショックでした。また、そこで出会ったスタッフのみなさんが楽しかったし、私自身も何のしがらみもなく、まったくイヤな思いも感じませんでした。振り返ると、すべてが楽しかったんです。だから、翌年から「生き方宣言フェスティバル」の実行委員に入れてもらったんです。
人とふれあえるのが楽しくて
当時は、三番目の兄が事務所を構え、「仕事を手伝ってほしい」と言われ、私も北浜にあった製薬会社を辞めて、そのお手伝いをしている時期で、仕事場では兄と二人きり。兄が現場や外回りに出ると私一人。本来すごく世話焼きな私は、「生き方宣言フェスティバル」のボランティア以降、 “なにか人と関われることはないかな” と漠然と思っていました。で、ある日、求人広告を見ていたら、家の近くの老人ホームで募集があったんです。土日歓迎と載っていたので、「ボランティアさせてください」と問い合わせると、「朝食の介助に来てください」と。
老人ホームにボランティアに行こうと思った一番の理由は、きょうだいが五人いて、唯一娘の私は結婚をしていないし、将来、両親に介護が必要になった時、自分にふりかかってくるだろうから、 “事前に経験しておけば、役に立つかな?” と考えたからです。
そのボランティアも、一ヶ月のつもりが、「少しだけど、給料を出すから来ませんか?」と誘われ、「土日だけだったら」と言いながらも介護という人とふれあう時間が楽しくて、アルバイトとして働き出したんです。その後、バブルが弾け、すぐではなかったけど、だんだんと兄の仕事も状況的にしんどくなってきて、 “アルバイト先で仕事が増やせるか聞いてみよう!” って。
私と介護の接点
現在、アルバイトで行っていた老人ホームで介護福祉士の資格を取り、正社員として働いています。十年近く経ち、ベテランというところまできて、一つのグループホームのリーダーも任されています。でも、未だに学生時代の友人や会社勤めだった頃の同僚には、「介護の仕事に就いたとはビックリ! どこからそんな気持ちが出てきたん?」って言われます。
確かに、若かりし頃は『Hanako』などのグルメ雑誌を読んで、仕事帰りに難波・心斎橋などに美味しい物を食べに出かけ、ゴルフにスキーと楽しんでいましたから、私と介護の接点が見えないんだと思うんです。振り返れば、 “役に立つかな?” と軽くのぞくつもりが、どっぷりつかっちゃいました。
介護の仕事は第三者から「大変だね」とよく言われますが、驚いたり、大変だったりすることも多々あったけど、続けられたのは、いい仲間にめぐり会って、トータルで楽しいことのほうが多く、やり甲斐もすごくあったからなんです。
老人ホームで働き出して感じたのは、行く行く両親を家で看たいと思っていたけど、実際に関わってみて、 “親孝行だと考え、無理して一緒に暮らして家族が苦しむのだったら、施設にお願いして家族が笑顔になるほうがいい” って。子供の立場で親を預けて “ごめんなさい” と感じるかもしれないし、親の立場で “家だったら気兼ねなく生活できたのに” と思うこともあるだろうけど、お互いが “笑顔” になる方法の一つに老人ホームもあるんじゃないかって。
今まではそんな介護の仕事を通して経験したこと、実感したことを周囲に発信するだけだったんですけど、今、私の現実として両親ともに介護が必要になったんです。自慢の両親で、まさかこんな日がくるとは思いませんでした。
介護の仕事と両親の介護
母から「パーキンソン症候群と言われたんよ」と聞かされても、私は “ピン” ときませんでした。最初はお薬で調整できていたんです。でも、時々お薬を飲み忘れると振戦(震え)がきて、お茶の葉をばらまいたり、電話中に受話器を持ったまま急に震えることがあったので、介護福祉制度の申請をしたら、両親ともに介護度が低い要支援二だったんです。
その後、母はパーキンソン症候群からパーキンソンに進行し、一昨年の秋ぐらいから歩行には介助が必要となり、車いすの生活。兄の知り合いや友人から「区分を見直してもらったら」と言われて、兄と相談して再検査してもらうと「要介護四ですね」って。母自身もビックリしたと思うし、私も同じ思いでした。
同時に、父も脳梗塞の後遺症の影響で小刻み歩行になり、今は脳梗塞の後遺症からくるパーキンソン症候群で要介護二。両親は週二回デイサービスを利用して、ヘルパーさんにも週一回来てもらい、母は訪問リハビリを受け、父はリハビリに通っています。
両親とすぐ上の兄夫婦と私で生活していますが、私は両親の介護は一歩引くようにしているんです。というのも、一介護福祉士として冷静に自分を見れば、下肢の運動やお口の体操とありとあらゆる術を知っていて、職場では「すごく丁寧で優しい」と言われている。でも、 “両親には優しくできない” というジレンマというか、両親に対する負い目があるんです。正直、介護の仕事と両親の介護では、私も疲れるんです。
幸いケンカしても右向いて左向いたら仲良くなれる家族だから、母が「道子は冷たい」と言ってきても、「はい、はい」って。その「はい、はい」が “気にいらん” という母の気持ちも親子だからわかるけど、「ちょっと黙ってて!」と、親子だからきつくも言ってしまうんです。
でも、私がカーッとなっている時は兄夫婦が優しく間に入ってくれて、逆に兄がカーッとなっていたら、私が間に入る。家庭内トライアングルができつつあります。
今の私の実感
障がいを持つ人のボランティア、老人介護と関わってきて、最初は障がいのある人・高齢者、その家族(介助者)、ボランティアというトライアングルだったんですけど、今、実感していることは、垣根が無くなっているんです。身体という見た目では、障がいのあるなし、介護の必要あるなしだけども、元気に見える私でも悩みもあるし、人には言えないつらい現実やつらい思いがある。生きることを考えた時に、垣根はなんにも無かったんです。
“みんな一緒やんか” って。
障がいのあるなしとか、高齢者だとか、あるいは在家仏教こころの会の会員だとか会員じゃないとか、そんないろんな垣根を全部取り払うと、私の身体の中に新しい風がビュンビュン入ってきたんです。これまでいっぱいいっぱいの方と出会って、今の私がいて、その時その時でお互いにお互いができることを助け合っていけばいいって。
だから、ただ仕事として介護をしていて “今の自分になれていたかな?” と考えると、やっぱり「垣根が無い」と言いきれていなかったと思うし、きっと気がつかなかったと思うんです。
私の目指すところ
どうしても賃金や雇用の問題で、介護も流れ作業的になることもあるんです。「こころに訴える介護をしたい!」と言っても、「そんなん理想やわ」と返される。そんな場面に直面すると、 “在家仏教こころの会の介護施設があったらいいな” と感じることが多々ありました。でも、よくよく考えてみると、私の最も嫌いな “井の中の蛙” になるんですよね。だから、逆に “社会に通じる自分にならなあかん” って。
そんなことを言っている私ですが、近所の人が聞いたら “フフフ” と笑われるぐらい、家では大声で家族と言い争っている声を聞かれている。そういう自分を考えると恥ずかしいんですけど、 “社会に通じる自分になる” という思いで社会と関わっていくと、やがて地域なり、国なり、世界なりの介護に対する考え方も変わってくると思うんです。
職場である老人ホームは、元気になり退院していく病院とはまったく違います。長い人生の最後の舞台で出会うわけです。だから、日々の仕事は決して余裕がないし、きれい事に聞こえるかもしれないけど、私と “出会ってよかった” と思われたいんです。最後は本当のお別れで、経験が浅い頃は “悲しい” “寂しい” という思いが強く残っていました。でも、今は、精いっぱい生きた人生の先輩に “ここまでよく頑張ったね。やっとご両親や旦那様・奥様のもとへ行けるね” というこころでお見送りしています。
でも、それをそのまま両親に置き換えると、まだまだ “お疲れさま” とも思えないんです。私も含めて人は生まれた時から確実に死に向かって生きているわけで、 “頑張って生きなあかん” とは思うけれど、本当に私は “頑張れているかな?” って。両親を “もうやることやったからね” と最後のお見送りしたいけど、今は絶対無理。
だから、少しでも父なり母なりが “私を産んでよかったな” と感じてもらえる時を増やしていきたい。そう感じてもらえる “自分になる” を心がけながら、日々、素直に「疲れた、疲れた」と言える今を楽しんでいます。
(大きな乗りもの 2008年04月号)



