【しあわせになる本の紹介】 No.13
妹よ、あなたは自ら言葉を発しない。
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「いつか妹の面倒をみる」
今、私のかたわらには、妹がいます。彼女には知的障がいがあります。介護者は私です。でも、私は妹のおかげで、心穏やかな今の生活をつかむことができたのです。
今年は終戦60年。終戦の年に生まれた私も、今年60歳になります。戦後、日本中が貧しかったけれども、私の家は特別貧しかったですね。父は船乗りで、ずいぶんあちこちを転々としました。
私は福井で生まれ、2歳下の弟は佐賀、4歳下の妹は長崎の平戸で生まれました。物心ついた頃は佐世保に住んでいました。
その後も引っ越し続きで、私たち家族には故郷と呼べる場所はないし、親しくお付き合いした人のこともあまり覚えていません。
父は典型的な “飲む、打つ、買う” の人でした。家には寄りつかず、たまに帰って来たかと思うと、わずかなお金を持ち出してまたどこかに行ってしまう。そんな父でしたから、夫婦喧嘩が絶えず、私たち弟妹に心休まる時は無縁でした。
残された母と子供3人、毎日食べていくのがやっとで、私は小さい頃からお米を借りに行かされたり、いつもおなかを空かせていて、恥ずかしい思いをしました。
私が小学校に入った頃、私たち家族は海のそばの小屋を借りて住んでいました。その小屋に行くには険しい崖の道を通らなければなりませんでした。その道は大の大人でさえ足がすくむような道なんですが、そこで3歳の妹が転んで大怪我をしたんです。
でも、家にはお金がなくて病院に連れて行けなかったんだそうです。それが原因で高熱を出し、妹は知的障がいを負いました。
当時、私には妹の状態がよくわかりませんでした。でも、よくてんかんの発作を起こすのを見て、だんだん妹に障がいがあることを理解できるようになりました。そして、長女の私は自ずと「いつか私が妹の面倒をみなくては……」と思っていました。
良妻賢母を演じてきた私
中学を卒業して、東京の会社に就職しました。そして、23歳の時、同じ職場の男性と結婚しました。
私は小さい頃から、喧嘩の絶えない両親の姿を見て育ってきたので、「あたたかい家庭をつくりたい」という夢がありました。それと、障がいを持った妹がいるにも関わらず、嫁にもらってもらったという気持ちがあって、期待以上の妻にならなくては……という気持ちが強かったと思います。母を反面教師にして、夫に口答えをしてはいけない、逆らってはいけないと、ひたすら夫に尽くしてきました。
夕方、夫の足音が聞こえたら、玄関のドアを開けて待っていましたし、「おい」と言われれば、何を差し置いても夫のもとに駆けていく私でした。2人の娘に恵まれてからは、良妻賢母であろうと必死に努力しました。
夫は優しかったけれど気ままな性格で、嫌なことから逃げてしまうところがある人でした。たとえば、天気が悪いと会社を休むんですね。朝、風が吹いていたら会社に行かないんです。
そんな夫に、私は何も言いませんでした。何も言わず、ただ従うことが愛だと思っていましたから。
でも、それは歪んだ愛情でした。子供の成長に合わせて、親も成長しなくてはならないのに、私は歪んだ愛情で夫の成長を妨げてしまった。夫だけではありません。夫婦の関係も私自身も、これを機に少しずつ歪んでいったように思います。
見せかけの愛が崩れた時
10年後、念願のマイホームを購入して引っ越しをした直後のことでした。ささいなことで夫と喧嘩したんです。
それは本当につまらないことがきっかけでした。娘が友達から借りてきたゲーム機が電池切れで動かなくなって、それを返す時、私は娘に「電池を入れてお友達に返そうね」と言ったんです。すると、夫は「その必要はない」と怒り出したんです。
私、「この人、なんでこんなことを言うんだろう」とブチッと切れてしまってね、気がついたら目の前のテーブルをひっくり返していました。
私は今まで、いい妻でいようと無理をしていたのかもしれません。自分では優しいつもりでも、本当は見せかけの優しさだったと思いました。
“こんなに尽くしてあげているのに……。私は女中じゃない!” っていう思いが出てきて、この日を境に、私は夫のことを一切構わなくなり、夫とはギクシャクするようになりました。
しばらく経って、夫が浴びるようにお酒を飲むようになりました。会社で何か辛いことがあったようなんですが……。家に帰っても、夫婦仲は冷えているし、嫌なことがあると逃げる人だったから、お酒に走ったんだと思います。とはいえ、もともと糖尿病の症状があって、お酒はいけないんです。でも夫は、私がどんなに止めても兄弟親戚がどんなに説得しても、まったく歯止めがきかず、もうドロドロの状態でした。
入退院を繰り返すうちに会社をクビになり、糖尿病で体の自由もきかなくなって、とうとう夫は部屋に閉じこもってしまいました。
そうこうしていたら、今度は長女です。学校でいじめにあって、悪い友達とつきあうようになりました。娘は父親が大好きでしたから、その反動が大きかったんでしょうね。夫が朝から酔っぱらってベンチで寝ていたりするんですけど、それを友達に見られるのが嫌で……。
夫はああだし、娘は非行に走るし、家のローンは抱えているしで、もう1人でめいっぱいでした。「なんでこんな思いをしなきゃいけないの」と、私は夫を恨みました。
互いに心を閉ざしたまま
夫の代わりに働かなくてはならず、私は清掃の職を得ました。社会的に末端の仕事かもしれませんが、トイレの掃除をしていると、たまに「ありがとう」と言ってくれる人がいて、それが本当にうれしくて、これはいい仕事だと感じました。苦しくて切なくて、そんな毎日でしたから、その言葉が唯一の救いになっていました。また誰かに「ありがとう」と言ってほしくて、一生懸命に床やトイレを磨いたものです。
夫は相変わらず引きこもったままで、昼夜逆転の生活を送るようになっていました。同じ家に住んでいても、私たちとは一切顔を合わせません。だから毎朝、仕事に行く前に、テーブルの上に置き手紙と夫の食事を準備しておくのが私の日課でした。そういう生活が10年続きました。
正直に言えば、ある時期から私は夫を諦めたんです。保健所へ相談に行ったり、精神科の病院に連れても行きましたが、何をやっても効果はなく、「もうあなたの好きにしてください」という気持ちだったんです。
その頃は、長女を悪い仲間から取り返すほうが大事でした。娘ともいろいろありましたが、なんとか立ち直ってくれて、無事、高校を卒業しました。
7年前のある日、いつものように食事と手紙をテーブルに用意して家を出たんですが、帰ってからも食事がそのままになっていました。物音もしないし、おかしいなと思って部屋を覗いてみたら、部屋中に酒瓶が転がっていて、その片隅で夫が息絶えていました。死因はアルコールによる急死。58歳でした。
18年間、糖尿病とアルコール依存症に苦しみ、自分を追い込んでしまった夫。夫が私たちに対してどう思っていたかは今となってはわかりませんが、結局、夫との溝は最後まで埋めることはできませんでした。
大切なことに気づかせてくれた妹
夫が亡くなって、次女と2人……そこへ長女夫婦、子供たちが住み始めました。その頃、母と妹が大阪にいたので、7人で暮らそうと準備していたら、今度は母が亡くなりました。昔から、母にもしものことがあったら障がいのある妹は私が引き取ると約束していましたから、母も安心していたと思います。
母は妹の面倒をみながら、村営公民館の管理人の仕事をして暮らしていました。公民館の掃除や市の広報の区分けや配布といった仕事なんですが、母が亡くなったからといってすべてを放って帰って来ることもできず、妹の障がいの程度もよくわからない状況でしたから、母がやっていた仕事を私が引き継いで、1年間、妹と一緒に暮らしてみようと大阪にとどまりました。
最初のうちはお互いに慣れなくて、それこそストレスの塊でした。妹は先頭に立って仕事をする私が気に入らないし、村の人が私に挨拶するのも気に入らない。そうすると、プイとどこかへ行ってしまったり、てんかんの発作を起こしました。何か嫌なことがあると「うちは発作を起こすんや」と私を脅すこともありました。
私は私で、妹には子供に教えるみたいに同じことを何度も言い聞かせ、最後には「どうしてできないの!」と声を荒らげてしまう毎日。村の人は「ミドリちゃんは仏さまのような人や」と言うんですけど、私にしてみれば、どこが仏さまなんだと(笑)。私はストレスで髪が真っ白になりました。
毎日が闘いなんですが、でもね、だんだん妹の良さがわかってきたんです。それが、今思うと、私自身の心の転機となったのです。
妹は自分から言葉を発しない。けれども、いつもニコニコと朗らかで、その笑顔を見るだけで肩の力が抜けて優しい気持ちになれるんですね。妹は誰かの助けが必要だけれど、もしかしたら、妹の笑顔も誰かの助けになっていたのかもしれません。
また、どこへ行っても、地域の方々が私や妹に優しい言葉をかけてくれました。母と妹が長い時間をかけて築いてきたことですが、それによって私はたくさんの方と知り合いになりました。
小さい頃から引っ越しばかりで、親しい友人はいなかったし、父も夫も親戚に迷惑をかけてきたので親戚づきあいもありませんでした。そんな私は誰にも甘えることができず、人を頼らず、人に隙を見せず、自分一人で頑張ってきたんです。
でも、人との関わりの中で教えていただくことや助けていただくことが多くて、私は妹を通じて、人との関わりの大切さに気づかせてもらいました。
穏やかに自分を生きる
一昨年の1月、妹を連れて東京に戻り、一つ屋根の下で私と妹、娘夫婦、子供たちとで暮らし始めました。
大阪で妹を丸ごとわかってからは怒鳴ることもなくなり、私も妹も落ち着いてきました。娘夫婦や孫たちも、妹には本当にごく自然に優しい気持ちで接してくれるし、妹を通じて勉強する機会や交流の場が増えたことを喜んでもいます。
妹は1年間、家から福祉作業所に通っていましたが、昨年、やはり人の縁で、障がいを持つ人同士で生活するグループホームに入居することができて、今は週末だけ家に帰って来るという生活をしています。
妹は今、55歳。グループホームでは最年長者なんですが、自分から進んで人の面倒をみたり、職員さんの手伝いをするんだそうです。先日ある職員さんから「ミドリさんはホンワカした雰囲気があって、ミドリさんと一緒にいるとみんなも落ち着くんですよ」と言われてうれしい思いをしました。
私は今、とても心穏やかに過ごしています。こんな日がこようとは夢にも思いませんでした。生まれてから今日まで、辛いことや悲しいこと、苦しいことや嫌なことがいっぱいありました。自分一人が不幸だと思っていた時期もありました。
でも、ずっとそのままじゃないんですね。苦難を乗り越えた時、人は穏やかに自分を生きていけるようになるんでしょうね。気負いもなく、無理もせず、見栄も張らず、素のままの、ありのままの自分で生きられるようになって、本当に楽になりました。
清掃の仕事も、以前は人から「ありがとう」と感謝されたかった私でしたが、今はさせていただくという気持ちで仕事をしています。そして、自分から誰にでも何にでも「おかげさまで。ありがとう」が言えるようになりました。道を歩けば道路を造った人に、きれいな花を見かけたらその花に、バスに乗る時は運転手さんに、いつも心の中で「ありがとう」と言っています。
私たちは今まで大勢の人のお世話になってきました。妹の将来のことを考えると不安はありますが、それぞれができることをして、少しずつ世の中にお返ししていこうねと、妹とも話をしています。
(大きな乗りもの 2005年3月号)



