【しあわせになる本の紹介】 No.11
もう無理に頑張らない。でも、諦めない。
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「足の感覚がない!」
体の異変に気づいたのは、2000年5月のゴールデンウイークの最中でした。朝、目が覚めたら、おヘソから右足にかけて感覚がないんですね。こんなのは初めてのこと。「変やなあ」と思いながらも、ゴミを出したり、朝食やお弁当の支度をして、小学校5年生の息子を先に送り出しました。
その日は息子のサッカーの試合でした。私が父母会の世話人をしていたものですから、大急ぎでバイクに乗って試合会場に向かいました。ところが、そのうちだんだん足が動かなくなって、トイレに行こうにも立てないんですよ。やっぱりおかしいと、またバイクに乗って近くの病院に行きました。
おそらく椎間板ヘルニアだろうというので、念のためにMRI検査をしたら、どうも違うと。病院の先生も首をひねっていて、「うちでは診れない病気かもしれない」と大学病院の神経内科に紹介状を書いてくださいました。
大学病院では、検査、検査の毎日でした。たぶん、病名は予想されていたと思いますが、いくら検査しても、これだと断言できる決定的なデータが出なかったようです。検査入院は45日間に及び、結局、病名がわからないまま退院しました。
右足の感覚はほとんどなくて、力が入りません。こんな状態なのに、何もないはずはありません。いろいろな病院を探して、何度も同じ検査を受けて、ようやく「多発性硬化症」という病気であることがわかりました。
原因不明の難病
「多発性硬化症」というのは、脳や脊髄の神経の周囲を覆っているビニールみたいな被膜(髄鞘)を自分の免疫で傷つけてしまう病気なんだそうです。どの部分に病巣ができるかによって、呼吸ができなくなったり、目が見えなくなったり、手や足が麻痺したりするんですが、私の場合、足だったんですね。
ふつうはMRI検査で病巣を確認できるのですが、私の場合は病巣がMRIに写らないという特殊なケースらしく、病院で何度検査を受けても病名が特定できなかったのはそのためでした。原因はわかりませんが、ストレスが引き金になると聞いています。
当時、私は40歳でした。それまで病気一つしたことがなくて、両手に荷物を2つ、3つぶら下げて一目散に駆け出すような、典型的な元気な主婦だったんです(笑)。
主人は自営業なので、日中は家業を手伝い、その合間に家事をこなして、PTAや町内会の役員、サッカーの父母会の世話人をして……と、それこそ毎日、分刻みの生活を送っていました。
それがある日突然、足が動かなくなって、「あなたは多発性硬化症という病気です。一生、車イスの生活です」と言われても、どうしても自分のこととは思えませんでした。
現実を受け入れるまで一年
最初はさほど深刻には考えていませんでした。病院の先生から車イスを使うよう勧められましたが、「松葉杖で大丈夫です」と拒否しました。車イスなんて大袈裟や、嫌やって思ったんです。先生も渋々、承諾してくれました。
松葉杖でなんとか1年、頑張ったんです。障がい者用の自動車を運転してどこにでも行けたし、少し不自由ではあるけれど、今まで通り元気な主婦をやってきました。でも、自由にならない足を松葉杖で支えるのも限界があるんです。そのうち手がパンパンに腫れて、手が使えない状況になって観念しました。
「先生、もうあかん。私には車イスが必要なんやね。買ったほうがええんやね」
先生は必要だって言いました。一生使うだろうから、買ったほうがいいって言いました。その時、やっと私は、自分の病気のこと、これから車イスの生活になることを理解したんです。
自分の体がどんな状態なのか、その現実を認めるまで1年かかりました。そして、やっぱりそうなんだとわかった時から、私の中で葛藤が始まるんです。
「なんで私なんや! なんでや、なんで!」
「私はできる。大丈夫」が口癖だった
私の家は義母と主人、3人の子供の六人家族です。私が病気になっても、家族の態度はちっとも変わりませんでした。
発病した時、長女は15歳、次女は13歳、長男は11歳。3人にも私の病気のことをきちんと説明しました。「もう治らんかもしれへんけど、どう思う?」と子供らに聞いたら、「お母さんが全然変わっていないから、今まで通りでいいよ」と言いました。私、病気になっても落ち込んだ姿を見せなかったし、相変わらず口うるさい母親のままで、少しも変わっていなかったんですね(笑)。
これが暗い顔をして落ち込んだり、急におとなしくなったら、子供たちも戸惑ったろうと思います。
負けず嫌いで自信家で、何でも自分がやらないと気がすまないという気質も変わりませんでした。学校の行事もサッカーの世話役も、どんなことも「私が、私が」という感じでした。また、家に戻れば、長男の嫁という立場です。どこの家にもある嫁姑の関係で、義母に気を遣い、落ち度のないように常に気を張って暮らしてきました。
いずれは親の介護をするはずの嫁が、急に逆の立場になってしまったわけですから、義母に対する後ろめたさ、悔しさは言葉にはできません。義母が手伝ってあげるよと言っても、どうしても素直に受け入れることができなくて、「これくらい自分でできます」「大丈夫です」と、肩肘張ってしまうんです。人に甘えられず、弱いところを見せられず、「私はできる。大丈夫」と無理に明るく振る舞う私でした。
患者同士の心の交流
この病気は、いつ、どこに病巣ができるかわからなくて、再発を繰り返します。私も最初は足だけでしたけど、目や手にも出てきました。今、あまり見えませんし、手がしびれて箸が持てません。発病以来、入退院を繰り返し、1年のうち三分の一は入院生活です。
この病気を専門に治療する病院が全国に5、6カ所あって、関西には京都の宇多野にあります。今、そこにお世話になっているんですが、専門の病院なので同じ病気の患者さんが大勢います。病歴10年、20年という人も多くて、みんな、私以上に深刻な病状です。
病気の苦しみは、医者にも家族にも伝わらなくて、それが辛いですね。でも、患者同士だと同じ経験をしているので、相手の気持ちが手に取るようにわかるんです。私はここで、自分を飾らず話ができる人たちにめぐりあいました。
入院すると、いつも患者同士で「頑張ろう」と互いに励まし合っていたんですが、ある時、「これ以上、私ら何を頑張るんやろな……」っていう話になったんです。今、すでに病気と闘っている。家族と別れて一人で入院生活を送っている。辛いことをいっぱい我慢して頑張っているのに、これ以上、何をどう頑張ればいいんだろうって。
あと何年生きられるかわからないけれど、ずっとこの体で生きていくわけです。いつもいつも頑張っているのは、しんどい。だから、患者同士で「頑張ろう」を禁句にしました。そして、辛いことも苦しいことも、腹を割って話をしようと決めました。
「スミマセン」ではなく「ありがとう」
それから少しずつですが、無理に頑張らなくてもいいかなと思うようになりました。どんなに頑張ってみても、できないことのほうが多いわけだし、無理なことは無理なんです。まさに「この自分で生きる」という感じで、障がいを負ったら負ったなりに、自然体で生きていきたいなあと思い始めています。
最近やっと自分から、「手を貸してください」と言えるようになりました。3月には、こころの会のセミナーに参加したんですが、そこでも大きな収穫がありました。
車イスで人込みの中に入ると、どうしてもいろんな人の手を煩わせてしまうので、無意識のうちに「スミマセン、スミマセン」と謝っているんですね。よほど連発していたらしくて(笑)、ある方から「スミマセンなんて言わなくていい。そんなに気を遣わなくていいよ」と言われました。
私は自分で自分を卑下していたのかもしれませんね。ああ、これは私がめざしていたことではないぞと思いました。
人の助けが必要な時は素直に助けてもらって、「スミマセン」ではなく、「ありがとうございました」とお礼を言うことが大事だと気づきました。
手を貸してくれた人にきちんとお礼を言うことで、その人が他の障がいを持つ人にも手を貸してくれるかもしれません。私がそういうきっかけをつくれたらいいなと思っています。
諦めず、前向きに生きる
必要以上に頑張らないようにしようと思いますが、これから先、状態が悪くなっても、心まで病気に負けたくはありません。病院で前向きな患者さんをたくさん見ています。みんな自分の命を大切に生きているんです。必死で自分のできる範囲を行う態度には頭が下がります。私にもまだできることが残されています。ここで負けていたらその人たちに笑われますよね。
私ら患者の間では、「前向きに生きよう」が合言葉です。病気は、後ろを向いたら絶対に駄目。どんなことも最初から諦めてしまうんですね。でも、前を向いている限り、絶対にへこたれないし、新しいことを受け入れる余裕が生まれます。
私もいずれは寝たきりになるかもしれません。でも、そうなるまでまだ時間があるんだから、今やれることは精いっぱいやりたいし、毎日、楽しく暮らしたいと思います。
病気をして失ったことは多いけれど、人を思いやる気持ちがわかるようになりました。とくに患者同士、相手を思いやる気持ちは強いですね。みんな、体が動かない分、心が動くんです、相手を思いやる心が。だから、みんな、自分のことと同じように相手を心配します。
相手を思いやる気持ち、心配する気持ちは、以前の私にはありませんでした。人によく思われたい自分でしたから、病気にならなかったら、きっと一生、相手を思いやることを知らなかったと思います。
病院ではなく、家族のそばにいられるのがそりゃあ、一番です。私にとって、主人の存在は大きいですよ。よく動く、マメな人なんです。子育ても終わり、ようやく夫婦二人の時間を楽しめるという時に病気になったものだから、最初の頃は主人に申し訳なくて、そのストレスもずいぶんありました。でも、今は仕方ないなあという感じです。
5年経って、ようやく、私も主人も病気とのつきあい方がわかってきました。
「自由な時間がほしいやろ。そろそろ私に入院してほしいと思ってるやろ」
「うん、ストレスがたまってきた」
なんて、2人で冗談も言えるようになりました(笑)。
(大きな乗りもの 2005年6月号)



